FAZER LOGIN紬の指から、十円玉が滑り落ちた。
硬貨はレジ台の角へ当たり、甲高い音を立てて床へ転がる。銀色の脚のそばで小さく円を描き、やがて紬の靴へ触れて止まった。
後ろに並ぶ客の籠が、重い音を立てて台へ置かれる。
紬はすぐに拾わなければと思った。
けれど身体が動かなかった。
「……紬?」
レジの向こうから、もう一度その名が落ちてくる。
聞き間違えるはずのない声だった。
低くなっている。少年だった頃の軽さは消え、長い年月を越えてきた男の声になっていた。それでも言葉の終わりにわずかに残る息遣いも、誰かを確かめようとする時の静かな響きも、紬の記憶にあるものと同じだった。
雨宮律。
中学時代よりも肩幅が広くなり、濃紺のスーツが長身へ隙なく馴染んでいる。短く整えた黒髪には乱れがなく、輪郭から少年の丸みは消えていた。
目元には、深い疲労が刻まれている。
眠れていない夜を幾度も重ねたような薄い影。穏やかだった瞳の奥にも、簡単には消えない翳りが沈んでいる。
それでも、律だった。
十五年以上見ていなくても、紬には一目で分かった。
一方で、律の目には確信と迷いが交互に浮かんでいた。
無理もない。
中学生だった頃の紬は、華怜と同じように頬へやわらかな丸みがあり、背中まで伸ばした髪には艶があった。制服の袖から覗く手にも、洗剤によるひび割れも、引っかき傷もなかった。
いまの紬は頬がこけ、長い髪を自分で切って一つに結んでいる。目の下には睡眠不足の影が残り、前髪の奥には卓臣に叩かれた赤みがある。
かつて知っていた少女と同じだと、顔だけで信じられないのは当然だった。
それでも律は、紬を見つけた。
胸の奥へ、忘れていたはずの風景が一度に押し寄せる。
放課後の昇降口。雨の匂い。二台並べて押した自転車。橋の上で風に飛ばされた紬の髪を、律が不器用な指で押さえてくれたこと。
校舎の階段で彼女を見つけるたび、律は必ず名前を呼んだ。
久世さんでも、姉の方でもなかった。
紬。
ただ一人だけを見つけるための、二つの音だった。
その声を、いまは華怜が聞いている。
思い至った瞬間、胸へ押し寄せたものが急速に冷えていく。
律は、双子の妹の夫だ。
紬には卓臣がいる。律には華怜がいる。たとえ目の前にいる男が、かつて家族の命令で手放した人であっても、ここで過去を口にすることは許されない。
まして、ここは職場だった。
紬の後ろには奈津子がいる。事務所には鴨志田がいる。少しでも手を止めれば怠けていると言われ、客と言葉を交わせば仕事と私情を混同したと責められる。
客は律一人ではない。
レジの後ろには買い物籠を持った客が三人並び、何が起きたのかとこちらを見ている。
紬は唾を飲み込んだ。
空腹で乾いた喉が痛んだ。
「申し訳ございません」
しゃがみ込み、靴元の十円玉を拾う。指先が震え、最初の一度は硬貨の縁をうまくつまめなかった。
硬貨を釣り銭の受け皿へ戻し、ゆっくり立ち上がる。
もう一度律と目が合った。
彼の視線は、紬の顔から離れなかった。
紬は仕事用の表情を作った。口角をわずかに上げ、客へ向ける声を選ぶ。胸の内側で暴れる呼吸だけは、どうしても整わない。
「人違いではないでしょうか」
言葉にした途端、自分の声が遠く聞こえた。
これで律が謝り、会計を済ませて去ってくれればいい。
そう願いながら、胸のどこかでは、彼が簡単に信じてしまうことを恐れていた。
覚えていてほしいと望むことさえ、いまの紬には許されない。それでも、十五年前の自分まで人違いとして消えてしまうようで、冷たくなった指先がわずかに震えた。
律の眉がかすかに動く。
驚いたようにも、傷ついたようにも見えた。けれど彼はすぐに否定せず、紬の胸元へ目を落とした。
透明な名札には、《御厨 紬》とある。
律は初めて見る姓を、声にせず読んでいた。
御厨。
久世ではない。
自分と同じ雨宮でもない。
紬が誰かと結婚し、その姓を名乗っていることを、たった二文字が語っている。
律の喉がわずかに動いた。
「顔だけなら迷った」
低い声だった。
後ろの客へ聞かせるつもりはないのだろう。身を乗り出すこともなく、ただ紬にだけ届くほどの音量で続ける。
「でも、声は変わってない」
紬の指先に力が入った。
変わっていないはずがないと思った。
朝から晩まで謝り続け、怒鳴られるたびに小さくなった声だった。言いたいことを飲み込み、家では物音さえ立てないよう押し殺してきた。
中学生の頃の紬は、もっと笑っていた。
律の前では、家で言えないことも話せた。新しい本を読んだこと。いつか海の見える町へ行ってみたいこと。華怜と同じ服ではなく、自分で選んだ青いワンピースが欲しいこと。
あの頃の声など、とうに失ったと思っていた。
けれど律は、変わっていないと言った。
紬自身が捨てたつもりでいたものを、彼だけがまだ覚えている。
「お客様」
紬はレジ画面へ目を戻した。
「お支払い方法は、いかがなさいますか」
律は答えなかった。
右手に開いた財布を持ったまま、紬を見ている。視線には問いがあった。なぜ違うと言うのか。これまでどこで暮らしていたのか。どうしてそんな顔をしているのか。
けれど、そのどれも言葉にはならない。
後ろで、客が苛立たしげに息を吐いた。
買い物籠の取っ手が倒れ、硬い音を立てる。
「あの、会計まだですか」
「大変申し訳ございません」
紬が頭を下げた時、離れたレジから奈津子の声が飛んだ。
「御厨さん!」
店内のざわめきを切り裂くような声だった。
いくつもの顔が一斉に紬へ向く。
「客とおしゃべりしないで! 後ろが詰まってるでしょう!」
「申し訳ございません」
紬は深く頭を下げた。
火傷した左腕が引きつり、袖の下で鋭い痛みが走る。顔を上げた時には、仕事用の笑顔を戻していた。
「お待たせして、申し訳ございません。お支払いは現金でしょうか」
律の目が、奈津子のいる方へ動く。
穏やかだった表情の奥で、何かが冷えたように見えた。けれど口を挟めば紬の立場を悪くすると察したのか、彼は何も言わない。
「カードで」
短く答え、財布から一枚を抜いた。
黒に近い濃紺のカードだった。
紬は両手で受け取ろうとした。
絆創膏の貼られた右手が、レジの白い光の下へ出る。
律の視線が、そこへ落ちた。
手の甲には岩蔵につけられた四本の引っかき傷が残っている。二本はまだ赤く、周囲の皮膚がわずかに腫れていた。洗剤と水仕事で荒れた指先には細かな亀裂が走り、爪の根元には乾いた血の色が薄く残っている。
律の指が止まった。
カードを渡す動作の途中で、目元が険しくなる。
「その手――」
「お預かりいたします」
紬は言葉を重ね、カードを受け取った。
触れたのは一瞬だった。
律の手にも、小さな傷があることへ気づいた。親指の付け根に、治りかけた細い裂傷。額の生え際近くにも、黒髪へ隠れるような傷跡があった。
仕事中の怪我かもしれない。
そう思いながら、なぜか胸の奥に鈍い違和感が残った。
カードを端末へ通す。
画面に文字が表示されるまでの数秒が、ひどく長かった。
紬はカードの表面を見ないようにしていた。
見てはいけないと思うほど、刻まれた白い文字が視界へ入った。
《AMAMIYA RITSU》
雨宮律。
忘れたことなど、一度もない名前だった。
昔は、それを見るだけで胸が温かくなった。
いま、その名は紬の双子の妹、華怜の夫を意味している。
華怜が手に入れた家の表札。華怜が夫として呼ぶ人。静江が、病弱な娘を幸せにしてくれた立派な男性だと何度も誇っていた相手。
家族に命じられて紬が手放したあと、華怜の隣へ立った人。
別れを告げた日のことを、紬は忘れていない。
静江から、華怜が律を好きになったのだから姉が身を引くのは当然だと言われた。病弱な妹を泣かせるのかと責められ、律へ本当の理由を話すことさえ禁じられた。
紬は自分から嫌いになったと告げた。
律は長い沈黙のあと、一度だけ理由を尋ねた。紬が答えなかったため、それ以上追わなかった。
その後、華怜と律が結婚したことを、静江から当然のように聞かされた。
自分で手放したのだと、何度も言い聞かせた。
けれどカードに刻まれた名を前にすると、あの日に飲み込んだ言葉が、胸の奥でまだ息をしているのが分かった。
律がいまも雨宮姓であることなど、初めから分かっていた。それでもカードへ刻まれた名前を目の前にすると、過去と現在の境目が刃物のように明確になる。
彼はもう、紬が名前を呼んでよい人ではない。
「暗証番号をお願いいたします」
紬は端末を示した。
律が数字を押す。長い指が動くたび、手の甲の筋が浮かんだ。
処理完了の電子音が鳴る。
「一括払いで承りました」
カードを返そうと手を伸ばした時、制服の袖口がわずかにずれた。
濡らしたハンカチの下から、火傷した皮膚が覗く。
粥を浴びた部分は赤黒くなり、一部には薄い水疱ができていた。きちんと冷やす時間もなく、スーパーの薬箱を使わせてほしいとも言えず、そのまま布で覆っていた。
律の顔から、わずかに残っていた再会の驚きが消えた。
代わりに、息を呑むような静けさが宿る。
視線が火傷から手の傷へ移り、さらに紬の左頬へ上がった。
前髪で隠していたはずの赤みまで見えたのかもしれない。
紬は咄嗟に、転んだだけだと言おうとした。
訊かれてもいないのに言い訳が浮かぶ。火傷は料理中の不注意。手の傷は介護中の事故。頬は棚へぶつけた。
家の外で傷を見つけられるたびに、そう説明することが身体へ染みついていた。
律の唇が開く。
紬は慌てて腕を引き、袖口を掌で押さえた。
「ありがとうございました」
「紬、それ――」
「カードをお返しいたします」
差し出す手が震えていた。
律はすぐには受け取らなかった。
触れない距離で、傷のある手を見つめている。顎がわずかに強張り、財布を持つ手へ力が入った。
問いただしたいのだと分かった。
昔の律もそうだった。
紬が大丈夫だと言うほど黙り込み、言葉ではなく顔を見る人だった。笑ってごまかした時ほど、何も言わず隣を歩いた。
だが、いまは隣を歩いてもらうことなどできない。
「お客様」
紬はあえて呼びかけた。
律ではなく、お客様。
彼の瞳がわずかに揺れる。
「後ろのお客様がお待ちですので」
律は紬の後ろへ目をやった。
四人に増えた列。腕時計を見る会社員。子どもを連れ、苛立ったように籠を持ち替える女性。遠くからこちらを監視している奈津子。
律は何かを飲み込むように口を閉じた。
カードを受け取る。
その指が紬の手へ触れないよう、ひどく慎重に動いた。
「商品をお渡しいたします」
紬はミネラルウォーターと缶コーヒー、サンドイッチを袋へ入れた。
律は仕事帰りなのだろう。これが夕食なのかもしれない。昔から忙しい時ほど食事を簡単に済ませ、平気な顔をする癖があった。
そんなことを覚えている自分が、紬は怖かった。
十五年以上という時間は、記憶を消してくれなかった。ただ触れずに暮らす方法を覚えさせただけだった。
袋を差し出す。
律が持ち手を受け取る。
今度も指は触れなかった。
「ありがとうございました」
決められた言葉を口にし、紬は頭を下げた。
これで終わる。
律は華怜のもとへ戻り、紬は八重たちの待つ家へ帰る。今夜も十人分の食事を作り、岩蔵の世話をして、五人の弁当箱を洗う。
レジの前で偶然顔を合わせただけだ。
それ以上の意味を持たせてはならない。
けれど、頭を上げても、律はまだそこにいた。
黒い革の鞄と買い物袋を持ち、紬を見つめている。
目元に疲労を刻みながら、その視線だけは中学時代と同じようにまっすぐだった。
後ろの客が一歩進み、律はようやく横へ退いた。
完全にレジを離れる前に、低い声で言う。
「また来る」
約束を求める響きではなかった。
拒まれても、ここにいることだけは確かめるというような声だった。
紬が答える間もなく、律は後ろの客へ場所を譲った。
それでも立ち去る直前まで、彼の視線は紬から外れなかった。
その日、紬がレンタルルームへ持ってきた鞄は、いつもより少しだけ重かった。中に入っているのは着替えでも食事でもなく、薄い大学ノートが三冊と、透明なファイルへ挟んだ銀行明細やレシートの写しだった。長年使い続けてきた家計簿の一部で、表紙の角は擦れ、何度も開閉したページの端には油や水の薄い染みが残っている。子どもが幼かった頃に書いた鉛筆の数字と、最近の細いボールペンの文字が同じ一冊の中に並び、紬が何年も同じ台所で金額を削り続けてきた時間そのもののように見えた。 律は机の向こうへ座り、紬が一冊目を開くまで何も尋ねなかった。今日はスープも菓子もなく、二人分のペットボトルの茶だけが机の端に置かれている。紬は最初のページをめくり、五万円と大きく書かれた月で指を止めた。「これ、まだ生活費が五万円だった時」「十人で?」「うん」「食費だけ?」「食費と日用品と、学校で急に必要になったもの。病院代は卓臣が出すって言ってたけど、細かい診療代は結局ここから払うことも多かった」 律は眉を寄せたが、何も言わずページへ目を落とした。米、肉、魚、牛乳、洗剤、トイレットペーパー、学校用品。数字は一円単位で細かく並んでいる。月末へ近づくにつれて、肉の回数が減り、豆腐ともやしが増え、紬自身の昼食欄だけが空白になる日が多くなっていた。「この頃から、自分の分減らしてた?」「減らすっていうより、残ったものを食べてた」「残らなかったら?」「食べない」 答えてから、紬は自分でも平然と言いすぎたと思った。律の表情が少し曇る。それでも彼は「何でそんなことを」と責めるようには言わず、次のページへ目を移した。「これが三万円になった月」 紬は別のノートを開く。赤いペンで〈三〇、〇〇〇円〉と書かれ、その下へ日付ごとの支出が並んでいる。月の半ばを過ぎたところから、買い物の内容が明らかに変わっていた。豚肉の代わりに鶏むね肉、刺身の代わりに豆腐、果物は安いバナナだけ。八重が要求する八品を維持するため、同じ材料を切り方と味付けで別料理に見せている日もある。「ここ、何で一日食費四百円台なんだ」「前の日の残りと、冷凍してあったもの使ったから」「十人分?」「うん」「無理だろ」「だから、私の分を数えなかった」 律は何か言いかけてやめた。紬はその沈黙の意味が分かった。以前なら、自分でも「でも仕方なかった
卓臣の会社から家族同伴の食事会があると聞かされた時、紬が最初に考えたのは、誰が岩蔵を見るのかということだった。八重は「たまには嫁らしく夫の顔を立ててきな」と言い、自分が数時間くらい父親のそばにいるから問題ないと答えたが、その口ぶりだけで、帰宅後に何を言われるかは想像できた。子どもたちは同行せず、夫婦だけで出席するらしい。卓臣は紬へ予定を相談するのではなく、三日前になって日時と場所を告げ、当日は仕事を早退するよう命じた。「会社には自分で話します」「休めばいいだろ」「早退できるか確認します」「俺の会社の付き合いなんだから、それくらい合わせろよ」 以前なら、その場で謝って店長へ無理を言ったかもしれない。今の紬は勤務表を確認し、交代可能な従業員がいることを確かめた上で、一時間だけ早く上がれないか申し出た。理由も「家族行事」とだけ伝えた。鴨志田は以前のように夫から何か連絡があったのかとは聞かず、「分かりました」と勤務変更を記録に残した。 当日の夕方、紬が帰宅すると、卓臣はすでに支度を終えていた。紺色のスーツに新しいネクタイを締め、鏡の前で髪を整えている。ベッドの上には、紬が数年前に親族の結婚式用として買った濃紺のワンピースが置かれていた。「それ着ろ」「これ?」「スーパーの制服みたいな格好で来られたら困るからな」 紬は黙って着替えた。ワンピースは以前より少し緩くなっている。体重が落ちたせいで、腰のあたりに余分な布ができていた。化粧も最低限だけ整え、髪を一つにまとめる。卓臣は玄関へ出る前に紬を頭から足まで確認し、口紅が薄いと言って自分の指で紬の口元へ触れようとした。「自分で直します」 紬が顔を引くと、卓臣の眉が動いた。「今日くらい普通にしろよ」「何が普通なの」「夫婦としてだよ」 その言葉を聞きながら、紬は口紅を塗り直した。 会場は都心のホテルにあるレストランだった。卓臣の会社の取引先や同僚、管理職とその家族が集まり、円卓ごとに名前が決められている。受付へ着いた瞬間から、卓臣の表情は家にいる時とは別人のように柔らかくなった。「妻の紬です」 名前を呼ばれた。 家では滅多に呼ばない名前を、卓臣は他人の前ではためらいなく使う。「五人もお子さんがいるんですよね」 同僚の妻らしい女性が驚いたように言う。「そうなんです。全部妻が頑張ってくれてい
誕生日会から二日後、紬はレンタルルームの扉を開けた瞬間、まず律の顔を見た。頬にも手にも新しい傷はなく、それだけで胸の奥が少し緩む。けれど安堵のすぐ後に、華怜の家で何があったのかという不安が戻ってきた。あの夜、律は皆の前で紬へケーキを渡し、椅子まで運んだ。華怜も卓臣も、二人の関係を疑っている。今ここで会うこと自体、本来なら避けた方が安全なのだと、紬にも分かっていた。 部屋には、いつもの二脚の椅子と小さな机、壁際の古いソファがある。今日は食事を用意していなかった。律は先に着いていたが、紬が入ってもすぐには近づかず、机の向こうで立ったまま待っている。紬が椅子へ座るのを見てから、ようやく自分も向かいへ腰を下ろした。「この前は、ごめん」 律が先に言った。「何が?」「誕生日会。俺が余計なことした」 言い訳を探すような声ではなかった。紬は鞄を膝へ置き、その留め具へ指をかけたまま律を見る。「困らせたと思う」「……うん」 紬は否定しなかった。「怖かった。華怜も見てたし、卓臣も怒ってた。あの場で律が私にケーキ渡したら、また何か疑われるって分かった」「ああ」「椅子まで持ってきたでしょう」「それも悪かった」 律は短く答えた。「前に久世家でもやったから、同じことをすればいいと思った。でも今は状況が違う。紬が自分で距離を決めようとしてるのに、俺が先に動いた」 その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。怒っているわけではない。むしろ、あの日渡されたケーキをまだ覚えている。自分の名前が書かれていない大きなケーキの端を、小皿へ載せて差し出された時、家族全員の前で手が震えた。それでも皿を床へ置かず、一口だけ食べた。「うれしくもあった」 律の目が上がる。「怖かったけど、うれしかった」「どっちなんだ」「両方」 紬は自分でも少し笑った。「私、あの時、本当に食べちゃいけないと思ってたんだよ。華怜のためのケーキだから。私の名前は書いてないし、お義母さんもお母さんも、私は祝われる側じゃないって言ってたから」「それは違うと思った」「うん。それを、律が皿ごと渡してくれたでしょう」 紬はそこで一度言葉を止めた。「だから、自分にも食べる権利があるんだって分かった」 律は何も言わずに聞いている。「でも、今度からは私に選ばせて」 紬ははっきり言った。「食べるかどうか
午後六時を回るころには、御厨家の食卓だけでは皿が収まらなくなっていた。紬が早朝から仕込んだ料理は十二品あり、鯛の塩焼き、筑前煮、茶碗蒸し、甘い出汁巻き卵、華怜が好きな海老の含め煮まで、大皿と小鉢が居間の座卓にも並べられている。仕事から戻って休む間もなく仕上げた料理だったが、八重は数を確かめるより先に鍋の中を覗き、「これ、十人分くらいしかないじゃないか」と眉を吊り上げた。今日は静江と隆、華怜と律まで来るため、普段の食卓より人数が多いことなど、紬にも分かっていた。それでも材料費を増やす金は渡されておらず、三万円に減らされた生活費の残りと自分の財布から出さずに済む範囲で、豆腐や根菜を使って量を増やしていた。「足りなかったらどうするんだい。華怜ちゃんの誕生日なんだよ」「十二品あります。ご飯も多めに炊いてあります」「品数の話じゃないよ。客に遠慮させるようじゃ嫁の恥だって言ってるんだ」 八重はそう言いながら、海老の大皿から一番形の良いものを華怜の席になる皿へ先に取り分けた。紬は言い返さず、鍋の底に残った筑前煮を別の鉢へ移し、見た目だけでも量があるよう整えた。今日は自分も誕生日だと昼までは意識していたはずなのに、家へ帰って台所へ立ってからは、またいつものように「何人分足りるか」「誰が何を嫌うか」ばかりを考えている。昼休みに食べた小さなプリンと、律が言った「誕生日おめでとう、紬」という声だけが、朝から続いている一日の中で別の場所に置かれた記憶のようだった。 六時半を過ぎたころ、静江と隆が到着し、その十分後に華怜と律が来た。華怜は淡い生成り色のワンピースに金木犀の香水をまとい、誕生日の主役らしく髪まで丁寧に巻いている。静江は玄関で娘を抱きしめ、「今年も元気にこの日を迎えられてよかった」と目を潤ませた。そのすぐ横で靴を揃えていた紬には、誕生日について何の言葉もなかった。隆は紬と一瞬目を合わせたが、「料理、大変だったな」とだけ言い、そのまま居間へ入った。「姉ちゃん、これ全部作ったの?」「うん」「すごい。でも、この卵焼きちょっと色違うね。昔はもっと黄色かった気がする」 華怜が笑いながら出汁巻き卵を見た直後、静江が一切れ口へ運んだ。咀嚼してから首を傾げ、「華怜が好きだった味と違うわね。昔はもっと甘かったでしょう」と言う。紬は砂糖を増やして作ったことを伝えたが、静江は「病
八月の終わりが近づくと、御厨家の食卓に華怜の名前が増え始めた。最初に言い出したのは八重で、夕食後の茶を飲みながら、今年はちゃんとした食事会にしようと卓臣へ話していた。華怜は身体が弱かったのに、今年も無事に誕生日を迎えられるのだから祝わなければならないという。紬は流し台で十人分の皿を洗いながら、その会話を背中で聞いていた。「鯛は尾頭つきがいいね。華怜ちゃん、昔から見栄えのいいものが好きだから」「ケーキは俺が頼むよ」「去年みたいな小さいのじゃ駄目だよ。せっかくの誕生日なんだから」 卓臣と八重の声が続く。結莉はどんなケーキなのかと尋ね、茉白は華怜の好きな店なら駅前の洋菓子店だと口を挟んだ。凌雅と颯真も、どうせなら自分たちも食べられる大きいものにしてほしいと笑っている。その場にいる誰も、華怜と同じ日に生まれた人間が流しの前に立っていることへ触れなかった。 紬は洗剤の泡を流しながら、自分でも驚くほど静かな気持ちでその事実を受け止めていた。三十八回近く繰り返してきたことだった。双子なのだから誕生日は同じはずなのに、久世家ではいつも華怜の体調が中心になり、結婚してからは御厨家までそれを当然のように引き継いだ。悲しくないわけではない。ただ、悲しいと感じる前に「仕方がない」と自分へ言い聞かせる癖の方が、長い年月をかけて先に動くようになっていた。 翌日、静江から電話が来た。紬が休憩に入った直後で、画面に母の名前が出た瞬間に胃の奥が重くなる。それでも出なければ何度も着信が続くことを知っているため、人気のない従業員通路の端で応答した。『華怜の誕生日プレゼント、今年はこの化粧品にするから』「何の話?」『限定のセット。八万くらいするけど、華怜が前から欲しがってたの。あんたも半分出して』 紬は壁に背を預けた。生活費は三万円のままで、新しい口座に一万円だけ残せるようになったばかりだ。その一万円は、自分がようやく自分の名前で守れた金だった。「払えないよ」『また?』「またじゃなくて、払えない」『あんた、姉でしょう。誕生日くらい妹を祝ってあげようと思わないの?』「私も同じ誕生日だよ」 電話の向こうが一瞬静かになった。静江はその事実を知らなかったわけではない。ただ、忘れていたことを指摘された人のように、少し間を置いてから不機嫌そうな声を出した。『だから何なの。華怜は病
午前六時四十二分、紬は駅前の雑居ビルの階段を上がった。外はもう明るくなっていたが、朝の空気には夜の名残があり、日中ほどの暑さはない。それでも、家から駅まで自転車を走らせ、そのまま早足でここまで来たせいで、制服の下の背中には薄く汗がにじんでいた。スーパーの始業は午前八時。借りた部屋を出て電車へ乗り、従業員入口からロッカーへ向かう時間まで考えれば、二人に許されているのは四十五分しかなかった。 今朝も午前四時二十分に起きた。五人分の弁当へ米を詰め、鮭を焼き、卵を巻き、十人分の味噌汁を用意した。岩蔵には別に柔らかく煮た野菜を用意し、薬を飲ませ、夜中に汚れたタオルも洗濯機へ入れた。八重からは味噌汁の具が少ないと言われ、凌雅には弁当の肉を増やせと言われたが、六時十一分には家を出られた。自分の朝食だけは、台所へ置いたままの茶碗にさえ用意していなかった。 部屋の扉を開けると、律はすでに来ていた。濃紺のスーツに白いシャツ、ネクタイまで締めており、そのまま取引先へ向かっても不自然ではない姿だった。いつもの二脚の椅子と古いソファがあるだけの部屋で、仕事前の男が鞄を足元へ置いている光景は、どこか会議の待ち時間にも見える。「おはよう」「おはよう。早かった?」「十分くらい」「ごめん」「謝るところじゃない」 律はそう答え、机の上を示した。紙の容器へ入った味噌汁が二つ、包装された鮭のおにぎりが二つずつ置かれ、紙ナプキンと割り箸まで並んでいる。コンビニの袋から出しただけの朝食なのに、自分の前にも一人分があることを見た瞬間、紬は鞄を下ろす手を止めた。「食べてきたって言ったら?」「多分、嘘だと思う」「何で」「朝から十人分作った日は、紬は自分の分を後回しにするから」 言い返せなかった。律に生活の癖を知られていることが少し恥ずかしく、同時に、責めるためではなく食事を用意するために覚えられていたことがくすぐったい。紬は向かいの椅子を引き、もう「座っていい?」とは聞かずに腰を下ろした。「今日は鮭なんだ」「嫌だった?」「家でも鮭焼いてきた」「じゃあ別のにすればよかったな」「ううん。自分で焼いたのに、自分では食べてないから」 紬は包装を開いた。まだほんのり温かく、海苔の匂いがする。家で焼いた鮭は凌雅の弁当へ大きい部分を入れ、残りを五つへ分けたため、味見すらしていなかった。目







