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第5話 レジの向こうの初恋

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-07-26 18:24:38

 紬の指から、十円玉が滑り落ちた。

 硬貨はレジ台の角へ当たり、甲高い音を立てて床へ転がる。銀色の脚のそばで小さく円を描き、やがて紬の靴へ触れて止まった。

 後ろに並ぶ客の籠が、重い音を立てて台へ置かれる。

 紬はすぐに拾わなければと思った。

 けれど身体が動かなかった。

「……紬?」

 レジの向こうから、もう一度その名が落ちてくる。

 聞き間違えるはずのない声だった。

 低くなっている。少年だった頃の軽さは消え、長い年月を越えてきた男の声になっていた。それでも言葉の終わりにわずかに残る息遣いも、誰かを確かめようとする時の静かな響きも、紬の記憶にあるものと同じだった。

 雨宮律。

 中学時代よりも肩幅が広くなり、濃紺のスーツが長身へ隙なく馴染んでいる。短く整えた黒髪には乱れがなく、輪郭から少年の丸みは消えていた。

 目元には、深い疲労が刻まれている。

 眠れていない夜を幾度も重ねたような薄い影。穏やかだった瞳の奥にも、簡単には消えない翳りが沈んでいる。

 それでも、律だった。

 十五年以上見ていなくても、紬には一目で分かった。

 一方で、律の目には確信と迷いが交互に浮かんでいた。

 無理もない。

 中学生だった頃の紬は、華怜と同じように頬へやわらかな丸みがあり、背中まで伸ばした髪には艶があった。制服の袖から覗く手にも、洗剤によるひび割れも、引っかき傷もなかった。

 いまの紬は頬がこけ、長い髪を自分で切って一つに結んでいる。目の下には睡眠不足の影が残り、前髪の奥には卓臣に叩かれた赤みがある。

 かつて知っていた少女と同じだと、顔だけで信じられないのは当然だった。

 それでも律は、紬を見つけた。

 胸の奥へ、忘れていたはずの風景が一度に押し寄せる。

 放課後の昇降口。雨の匂い。二台並べて押した自転車。橋の上で風に飛ばされた紬の髪を、律が不器用な指で押さえてくれたこと。

 校舎の階段で彼女を見つけるたび、律は必ず名前を呼んだ。

 久世さんでも、姉の方でもなかった。

 紬。

 ただ一人だけを見つけるための、二つの音だった。

 その声を、いまは華怜が聞いている。

 思い至った瞬間、胸へ押し寄せたものが急速に冷えていく。

 律は、双子の妹の夫だ。

 紬には卓臣がいる。律には華怜がいる。たとえ目の前にいる男が、かつて家族の命令で手放した人であっても、ここで過去を口にすることは許されない。

 まして、ここは職場だった。

 紬の後ろには奈津子がいる。事務所には鴨志田がいる。少しでも手を止めれば怠けていると言われ、客と言葉を交わせば仕事と私情を混同したと責められる。

 客は律一人ではない。

 レジの後ろには買い物籠を持った客が三人並び、何が起きたのかとこちらを見ている。

 紬は唾を飲み込んだ。

 空腹で乾いた喉が痛んだ。

「申し訳ございません」

 しゃがみ込み、靴元の十円玉を拾う。指先が震え、最初の一度は硬貨の縁をうまくつまめなかった。

 硬貨を釣り銭の受け皿へ戻し、ゆっくり立ち上がる。

 もう一度律と目が合った。

 彼の視線は、紬の顔から離れなかった。

 紬は仕事用の表情を作った。口角をわずかに上げ、客へ向ける声を選ぶ。胸の内側で暴れる呼吸だけは、どうしても整わない。

「人違いではないでしょうか」

 言葉にした途端、自分の声が遠く聞こえた。

 これで律が謝り、会計を済ませて去ってくれればいい。

 そう願いながら、胸のどこかでは、彼が簡単に信じてしまうことを恐れていた。

 覚えていてほしいと望むことさえ、いまの紬には許されない。それでも、十五年前の自分まで人違いとして消えてしまうようで、冷たくなった指先がわずかに震えた。

 律の眉がかすかに動く。

 驚いたようにも、傷ついたようにも見えた。けれど彼はすぐに否定せず、紬の胸元へ目を落とした。

 透明な名札には、《御厨 紬》とある。

 律は初めて見る姓を、声にせず読んでいた。

 御厨。

 久世ではない。

 自分と同じ雨宮でもない。

 紬が誰かと結婚し、その姓を名乗っていることを、たった二文字が語っている。

 律の喉がわずかに動いた。

「顔だけなら迷った」

 低い声だった。

 後ろの客へ聞かせるつもりはないのだろう。身を乗り出すこともなく、ただ紬にだけ届くほどの音量で続ける。

「でも、声は変わってない」

 紬の指先に力が入った。

 変わっていないはずがないと思った。

 朝から晩まで謝り続け、怒鳴られるたびに小さくなった声だった。言いたいことを飲み込み、家では物音さえ立てないよう押し殺してきた。

 中学生の頃の紬は、もっと笑っていた。

 律の前では、家で言えないことも話せた。新しい本を読んだこと。いつか海の見える町へ行ってみたいこと。華怜と同じ服ではなく、自分で選んだ青いワンピースが欲しいこと。

 あの頃の声など、とうに失ったと思っていた。

 けれど律は、変わっていないと言った。

 紬自身が捨てたつもりでいたものを、彼だけがまだ覚えている。

「お客様」

 紬はレジ画面へ目を戻した。

「お支払い方法は、いかがなさいますか」

 律は答えなかった。

 右手に開いた財布を持ったまま、紬を見ている。視線には問いがあった。なぜ違うと言うのか。これまでどこで暮らしていたのか。どうしてそんな顔をしているのか。

 けれど、そのどれも言葉にはならない。

 後ろで、客が苛立たしげに息を吐いた。

 買い物籠の取っ手が倒れ、硬い音を立てる。

「あの、会計まだですか」

「大変申し訳ございません」

 紬が頭を下げた時、離れたレジから奈津子の声が飛んだ。

「御厨さん!」

 店内のざわめきを切り裂くような声だった。

 いくつもの顔が一斉に紬へ向く。

「客とおしゃべりしないで! 後ろが詰まってるでしょう!」

「申し訳ございません」

 紬は深く頭を下げた。

 火傷した左腕が引きつり、袖の下で鋭い痛みが走る。顔を上げた時には、仕事用の笑顔を戻していた。

「お待たせして、申し訳ございません。お支払いは現金でしょうか」

 律の目が、奈津子のいる方へ動く。

 穏やかだった表情の奥で、何かが冷えたように見えた。けれど口を挟めば紬の立場を悪くすると察したのか、彼は何も言わない。

「カードで」

 短く答え、財布から一枚を抜いた。

 黒に近い濃紺のカードだった。

 紬は両手で受け取ろうとした。

 絆創膏の貼られた右手が、レジの白い光の下へ出る。

 律の視線が、そこへ落ちた。

 手の甲には岩蔵につけられた四本の引っかき傷が残っている。二本はまだ赤く、周囲の皮膚がわずかに腫れていた。洗剤と水仕事で荒れた指先には細かな亀裂が走り、爪の根元には乾いた血の色が薄く残っている。

 律の指が止まった。

 カードを渡す動作の途中で、目元が険しくなる。

「その手――」

「お預かりいたします」

 紬は言葉を重ね、カードを受け取った。

 触れたのは一瞬だった。

 律の手にも、小さな傷があることへ気づいた。親指の付け根に、治りかけた細い裂傷。額の生え際近くにも、黒髪へ隠れるような傷跡があった。

 仕事中の怪我かもしれない。

 そう思いながら、なぜか胸の奥に鈍い違和感が残った。

 カードを端末へ通す。

 画面に文字が表示されるまでの数秒が、ひどく長かった。

 紬はカードの表面を見ないようにしていた。

 見てはいけないと思うほど、刻まれた白い文字が視界へ入った。

 《AMAMIYA RITSU》

 雨宮律。

 忘れたことなど、一度もない名前だった。

 昔は、それを見るだけで胸が温かくなった。

 いま、その名は紬の双子の妹、華怜の夫を意味している。

 華怜が手に入れた家の表札。華怜が夫として呼ぶ人。静江が、病弱な娘を幸せにしてくれた立派な男性だと何度も誇っていた相手。

 家族に命じられて紬が手放したあと、華怜の隣へ立った人。

 別れを告げた日のことを、紬は忘れていない。

 静江から、華怜が律を好きになったのだから姉が身を引くのは当然だと言われた。病弱な妹を泣かせるのかと責められ、律へ本当の理由を話すことさえ禁じられた。

 紬は自分から嫌いになったと告げた。

 律は長い沈黙のあと、一度だけ理由を尋ねた。紬が答えなかったため、それ以上追わなかった。

 その後、華怜と律が結婚したことを、静江から当然のように聞かされた。

 自分で手放したのだと、何度も言い聞かせた。

 けれどカードに刻まれた名を前にすると、あの日に飲み込んだ言葉が、胸の奥でまだ息をしているのが分かった。

 律がいまも雨宮姓であることなど、初めから分かっていた。それでもカードへ刻まれた名前を目の前にすると、過去と現在の境目が刃物のように明確になる。

 彼はもう、紬が名前を呼んでよい人ではない。

「暗証番号をお願いいたします」

 紬は端末を示した。

 律が数字を押す。長い指が動くたび、手の甲の筋が浮かんだ。

 処理完了の電子音が鳴る。

「一括払いで承りました」

 カードを返そうと手を伸ばした時、制服の袖口がわずかにずれた。

 濡らしたハンカチの下から、火傷した皮膚が覗く。

 粥を浴びた部分は赤黒くなり、一部には薄い水疱ができていた。きちんと冷やす時間もなく、スーパーの薬箱を使わせてほしいとも言えず、そのまま布で覆っていた。

 律の顔から、わずかに残っていた再会の驚きが消えた。

 代わりに、息を呑むような静けさが宿る。

 視線が火傷から手の傷へ移り、さらに紬の左頬へ上がった。

 前髪で隠していたはずの赤みまで見えたのかもしれない。

 紬は咄嗟に、転んだだけだと言おうとした。

 訊かれてもいないのに言い訳が浮かぶ。火傷は料理中の不注意。手の傷は介護中の事故。頬は棚へぶつけた。

 家の外で傷を見つけられるたびに、そう説明することが身体へ染みついていた。

 律の唇が開く。

 紬は慌てて腕を引き、袖口を掌で押さえた。

「ありがとうございました」

「紬、それ――」

「カードをお返しいたします」

 差し出す手が震えていた。

 律はすぐには受け取らなかった。

 触れない距離で、傷のある手を見つめている。顎がわずかに強張り、財布を持つ手へ力が入った。

 問いただしたいのだと分かった。

 昔の律もそうだった。

 紬が大丈夫だと言うほど黙り込み、言葉ではなく顔を見る人だった。笑ってごまかした時ほど、何も言わず隣を歩いた。

 だが、いまは隣を歩いてもらうことなどできない。

「お客様」

 紬はあえて呼びかけた。

 律ではなく、お客様。

 彼の瞳がわずかに揺れる。

「後ろのお客様がお待ちですので」

 律は紬の後ろへ目をやった。

 四人に増えた列。腕時計を見る会社員。子どもを連れ、苛立ったように籠を持ち替える女性。遠くからこちらを監視している奈津子。

 律は何かを飲み込むように口を閉じた。

 カードを受け取る。

 その指が紬の手へ触れないよう、ひどく慎重に動いた。

「商品をお渡しいたします」

 紬はミネラルウォーターと缶コーヒー、サンドイッチを袋へ入れた。

 律は仕事帰りなのだろう。これが夕食なのかもしれない。昔から忙しい時ほど食事を簡単に済ませ、平気な顔をする癖があった。

 そんなことを覚えている自分が、紬は怖かった。

 十五年以上という時間は、記憶を消してくれなかった。ただ触れずに暮らす方法を覚えさせただけだった。

 袋を差し出す。

 律が持ち手を受け取る。

 今度も指は触れなかった。

「ありがとうございました」

 決められた言葉を口にし、紬は頭を下げた。

 これで終わる。

 律は華怜のもとへ戻り、紬は八重たちの待つ家へ帰る。今夜も十人分の食事を作り、岩蔵の世話をして、五人の弁当箱を洗う。

 レジの前で偶然顔を合わせただけだ。

 それ以上の意味を持たせてはならない。

 けれど、頭を上げても、律はまだそこにいた。

 黒い革の鞄と買い物袋を持ち、紬を見つめている。

 目元に疲労を刻みながら、その視線だけは中学時代と同じようにまっすぐだった。

 後ろの客が一歩進み、律はようやく横へ退いた。

 完全にレジを離れる前に、低い声で言う。

「また来る」

 約束を求める響きではなかった。

 拒まれても、ここにいることだけは確かめるというような声だった。

 紬が答える間もなく、律は後ろの客へ場所を譲った。

 それでも立ち去る直前まで、彼の視線は紬から外れなかった。

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